2014年8月6日水曜日

被爆者の語りを英訳する

今日、8/6は広島に原爆が落とされた日。
8/9、長崎にも。

草野ハベル清子先生が、長崎の被爆者のメッセージを英訳するという活動をされています。

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コミ部英語の草野です。

 私はこの数年間長崎で原爆にあった人たちの語りの英訳をしています。5年ほど前に朝日新聞に広島長崎の被爆者のお話を英訳する人たちを募る記事が出ていました。すぐにやりたいと思いました。

 私は長崎市鳴滝町出身で、叔父、祖母(父方)などの親戚が被害に会っています。母は父が戦地に行ってしまい、私の兄と実家(大村市)で祖母(母方)と叔母と一緒に住むために長崎を離れていました。離れていると言っても直線距離で20kmほどです。

 小さい時から母と叔母から「ピカドン」のことは聞かされていました。彼女らの兄(私の叔父)が爆心地の浦上で被爆し、歩いて大村の家まで1週間かけて帰宅、それからの治療のことを聞きました。そして結局、白血病で私が6歳の時に亡くなりました。

 父方の母は家の前で浦上の方を向いていた眼を失明しました。それから親戚は祖母のことを「めーのばーちゃん」と呼んだそうです。母たちは20km離れていましたが、ピカッと閃光が走り、爆風を感じ、家のガラスが触ると熱かったと言います。近所の人々もみんな外に出て、「長崎ばい。見らんね。あの変か雲ば!」と、原子雲を外で見ていたのでした。

 母はその雲がどんどん大きく、上に伸びて行き、真っ赤になったと私に教えました。それから毎日彼女らは海軍病院があった大村の駅に送り込まれた死体を一つずつむしろをひっくり返して、自分たちの兄(爆心地にいた)ではないかと調べに行ったとのことです。でも母は「女か男かも分からんやった。足の裏にはたくさんガラスの破片が入り込んどった」と、どうしようもなかったと言いました。

 その母も亡くなり、叔母も今は老人ホームです。被爆者一世たちは高齢になっています。直接話が聞ける時間がなくなっていると思いました。

 私は自分になにかできないかといつも思っていました。学生たちや友人たちに話したこともあります。と、思っていたところに朝日新聞の募集があったのです。

 すぐに応募し、長崎弁が分かり、土地勘があるし、土地の名前などもすぐに分かるから、長崎の被爆者の語りの訳をやりたいと申し出ました。

 日本語を英語に私が訳し、アメリカ人の夫がその英語をチェックします。クロスチェックと言って、他の方の英訳をお互いにチェックし直すこともします。朝日新聞からは自分たちが訳したものの権利はすべて放棄し、すべての著作権は朝日新聞にあるという条件付きでした。もちろん私は文句ありません。英語だけですが、日本の外の人たちがそれを読めるという事は私にとってとても意味があることです。

 朝日新聞は第2課題として「ナガサキノート」というものも出しました。それも被爆者の語りです。これは日本語の本にもなっています。

 余談ですが、この3月に長崎に帰省した際も原爆資料館、その屋上にある(訳したので知っていた)新しくできた二人の少女の像などを見て回り、ふと、この像ができるようにした語り部に会いたいと思いました。でも友人や家族との約束がいっぱいでできませんでした。そして後になって、その語り部がこの4月に亡くなったと新聞で知りました。あー、会っておけばよかった。

 でも、少なくとも彼の語りは英語になっています。

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 Memories of Hiroshima and Nagasaki -- Messages from Hibakusha
http://www.asahi.com/hibakusha/english/

 Special Thanks:List of Contributing Volunteers
http://www.asahi.com/hibakusha/english/thanks/

 草野先生が書かれた記事と松添博さんの語り(朝日新聞)
http://www.asahi.com/hibakusha/english/shimen/nagasakinote/note01-02e.html(英語)
 日本語版は以下です。
http://www.asahi.com/hibakusha/shimen/nagasakinote/note01-02.html

 松添博さんの書かれた絵本(1992年刊)
ふりそでの少女』汐文社
※あいにく在庫はないようです。

松添博さんは、4月、83歳で亡くなられました。