2013/06/30

『COM』の「ぐら・こん」から


 桜井哲夫先生の授業「戦後マンガ史の試みから」の続きです。 

 1966年12月に手塚治虫が創刊したマンガ家育成のための雑誌『COM』(彼は創刊号で、COMICS(まんが), COMPANION(仲間・友だち)、COMMUNICATION(伝
えること・報道)、の3つのCOMをあらわすと述べています)に「ぐら・こん」という投稿欄がありました。

 この「ぐら・こん」には、その後有名マンガ家となる若者たちがマンガを投稿して、採点してもらっていました(マンガ予備校)。

 「土佐の一本釣り」の青柳裕介、「タッチ」のあだち充竹宮惠子「博多っ子純情」の長谷川法世宮谷一彦三丁目の夕日」の西岸良平神江里見能條純一日野日出志諸星大二郎やまだ紫山岸凉子といった人たちがそうでした。


 ここで紹介するのは、のちの少女マンガ界の大御所となる竹宮惠子(17歳、上の画像)と山岸涼子(19歳、その下の画像)の作品です。それぞれ、点数が出ていますので、ご覧ください。

 「ぐら・こん」とは、グランドコンパニオン、つまり「でっかい仲間」といった意味です。最初のところに「マンガを愛するでっかい仲間達よ、集まろう」という呼びかけが載ってます(左画像)。

 「ぐら・こん」は、その後、同人誌の全国的組織化を始め、これがのちの米澤嘉博(よねざわ よしひろ、1953年3月21日 - 2006年10月1日)らの、今や世界最大の同人誌即売会「コミック・マーケット」(1975年開始)の原点となったのです。 

 最後の画像は、辰巳ヨシヒロの『劇画漂流』下巻(青林工藝舎、2008年)の一部です。1957年12月、辰巳たちが国分寺市にやってくる場面です。彼らを迎えたのが、先に来ていた「さいとう・たかを」です。当時の国分寺市のうら寂しさが感じられます。

 今回の画像も、桜井先生所蔵の『COM』を撮影したものです。

2013/06/20

カルチュラル・タイフーン2013

 7月12日に行われる「学術シンポジウム」と13〜14日開催の「カルチュラル・タイフーン2013」(東京経済大学)の「フライヤー」ができました。詳細については次のサイトをお訪ねください。Cultural Typhoon 2013



2013/06/19

229名の卒業制作・卒業論文

コミュニケーション学部の必修科目に「卒業制作・卒業論文」があります。
昨年度出された「卒業制作・卒業論文」のタイトルをご紹介します。
配列は文字コード順です。
学生たちの関心を探る手がかりになるかもしれません。


2013/06/12

特別講義「戦後マンガ史の試みから」

桜井哲夫先生開講の「戦後マンガ史の試みから」という特別講義をご紹介します。

【授業表題】
戦後日本マンガの歴史を跡づける
【授業内容】
第2次世界大戦後、「新宝島」というストーリーマンガがあらわれたことから、日本におけるマンガの歴史は大きな変動をむかえることになる。世界に例のない長いストーリーマンガの登場が、戦後日本にあたらしいマンガの文化を生みだし、それが独自の日本アニメーション映画の発展を生み出すことになった。本講義は、手塚治虫から始まる戦後日本マンガの歴史を詳細に跡づけたいと考えている。初期の貸本マンガの時代から月刊雑誌連載マンガへの移行、さらに週刊マンガ雑誌の登場などにともなって、どのようなマンガが生まれたのか、また60年代におけるテレビアニメの登場とマンガとの関係などを追ってゆく。さらには日本マンガとアニメがどのように世界へ広がっていったのかを追求していきたい。
【到達目標】
日本のポピュラー・カルチャーにおけるマンガの意義を正確に認識し、それがどのように日本の子どもや若者たちの意識を変えていったか、世界へ浸透していったかを知る。
【授業計画】
1. 手塚治虫(手塚治虫の生涯)
2. 戦後ストーリーマンガの出現(「新宝島」の衝撃)
3. 赤本マンガとは何か
4. 貸本マンガの世界
5.「漫画少年」とトキワ荘のマンガ家たち
6. 月刊マンガ雑誌から週刊マンガ雑誌へ
7. 1960年代のマンガ世界
8. 少年マンガから青年マンガへ(「ガロ」と「COM」)
9. 青年マンガ雑誌の出現
10. 1970年代
11.「少年ジャンプ」の登場
12. マンガ、アニメの世界進出
13. マンガの未来
【参考文献】
桜井哲夫『手塚治虫』(1990年)ほか。


以下は、ある回の教材です。

水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」の変遷

(平林重雄『水木しげると鬼太郎変遷史』2007年、などによる)


江戸時代に「子育て幽霊」ないし「飴屋幽霊」と呼ばれる怪談話があった。各地の伝承によっては話がことなるのだが(中国の怪談話に由来するという説もある)、以下のような話である。落語にもなっており、またラフカディオ・ハーンが『飴を買う女』というタイトルで怪談を紹介している。

ある夜、店じまいした飴屋の雨戸をたたく音がするので主人が出てみると、青白い顔をしてやせこけ、髪をボサボサに乱した若い女が「飴を下さい」と一文銭を差し出す。毎晩くるので怪しんだ主人は女のあとをつけると、墓地のところで消える。住職に話をして、墓地に向かうと、新しい土饅頭の中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。6日前に、出産間近の若妻が亡くなって埋められた墓だった。掘り起こしてみると娘の亡骸が生まれたばかりの赤ん坊を抱いており、赤ん坊は飴を食べていた。後に、この子供は後に菩提寺に引き取られて高徳の名僧になったという。

この話をもとに、1932年ころ、富士会という紙芝居の組織が、伊藤正美に話をかかせ、辰巳恵洋が絵を描いて作った紙芝居が『墓場(ハカバ)奇太郎』である。水木しげるは戦後、紙芝居組織に入ったころ、これを描かないかと言われたが、伊藤正美らの紙芝居は全く見ていない(水木の鬼太郎は、話も登場人物も伊藤らとは全く違うオリジナル)。

1954年から55年にかけて、水木は、鬼太郎ものの紙芝居を「蛇人」以下4作品を描いた。第2作の「空手鬼太郎」にキャラクターとして「目玉おやじ」がすでに出ている。

次に、マンガ家に転身した水木は、貸本専門雑誌(単行本、兎月(とげつ)書房)『怪奇伝』第1巻(1960年)に「幽霊一家」を発表、次に第2巻に「幽霊一家 墓場鬼太郎」を掲載。これが好評で、専門単行本雑誌『墓場鬼太郎』が「地獄の片道切符」以下、3冊でた。しかし、兎月書房(朝ドラ「ゲゲゲの女房」では、富田書房のうじきつよしがインチキくさい社長を演じた)は倒産。原稿料も未払いだったので、水木が描かなくなったあとに、この社長は、竹内寛行に「鬼太郎」ものを描かせて出版し続けている(竹内版の「鬼太郎」ものが存在する)。

水木は、この後に『ガロ』を出す長井勝一と出会い、彼の三洋社(すでに白土三平の『忍者武芸帳』を出していた)から『鬼太郎夜話』シリーズを出し始めた。「吸血鬼と猫娘」(1960年)以下、4冊を出したが、長井勝一(朝ドラ「ゲゲゲの女房」では村上弘明が演じた深沢社長)が結核で入院。三洋社は解散し、5作目の原稿は行方不明となる(現在までも発見されていない)。

その後、長井勝一が復帰して、あたらしく青林堂を立ち上げ、『ガロ』を創刊。かくて『ガロ』に「鬼太郎」ものが連載され始めた。この「鬼太郎」ものに目をつけたのが、1965年に30才で「週刊少年マガジン」(講談社)編集長となり、マイナーな作家たちを発掘して、「少年マガジン」を大躍進させた内田勝(うちだ・まさる)だった。

【副教材】
鬼太郎変遷史


















※画像使用に問題がありましたら、お知らせくださいますよう、お願いします。

【確認テスト】
当日行ったミニテストです。 

以下の空白欄に適切な語句を入れよ。

1. 戦後マンガの出発点である(1)は、戦前からアニメやマンガに携わった(2)と、当時まだ医学生であった(3)による共作として1947年1月に出版され、後のマンガ家となる子供や若者に絶大な影響力を与えた。

2.(3)は、(1)という作品は、自分の思い通りに描けなかったために、自分の(4)の第一作は、(5)であると述べている。悲劇、カタストロフィを否定せず、主人公の死も容認するような文学的な広がりや哲学的な深さを作品に初めて持たせたからだと言う。

3. トキワ荘に集まったマンガ家は『背番号0』などで知られる(6)をリーダーとして新漫画党を結成した。その若手のなかには、『怪物くん』などで知られる(7)、『ドラえもん』などで知られる(8)や、『ひみつのアッコちゃん』などで知られる(9)などがいた。

4. 1959年、新しいマンガの可能性を追求すべく、辰巳ヨシヒロたちは、大阪から上京し、国分寺市に住みついて、社会的、政治的なテーマも含めたサスペンス志向の青年向けのマンガを(10)と名付けた。

←国分寺市に住みついた辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを等が出した「劇画宣言」(辰巳ヨシヒロ『劇画大学』(ヒロ書房、1968年)より)。