今回は「コミュニケーション史」担当の松永が「メディアと甲子園野球」をテーマにお届けします。
スポーツをメディアで切る
甲子園野球と言えば?——汗、涙、感動、青春、ブラスバンド、甲子園の土、「熱闘甲子園」……。今や「夏の風物詩」ともいえる夏の高校野球は、日本で最も人気のあるスポーツ・イベントの一つです。今回は、この甲子園野球を「メディア」の視点から見てみましょう。
高校野球100周年
今年は甲子園野球(全国高等学校野球選手権大会)が始まってちょうど100年目にあたり、各メディアでも高校野球特集を目にするようになりました。台湾代表校の実話をもとにした映画『KANO 1931 海の向こうの甲子園』(監督:馬 志翔)も公開中です。
野球経験のない私でも、夏の甲子園となればついつい地元・九州の高校を応援し、TVや新聞が報道する「球児たちの青春ドラマ」に注目してしまいます。
毎年80万人以上の観客を動員し、(私のように)ふだん野球とは無縁の人々をも魅了する甲子園野球は、なぜ、どのようにして「国民的行事」になったのでしょうか。
新聞社の経営戦略として始まった
1915年、高校野球は『大阪朝日新聞』社(現在の『朝日新聞』社、通称『大朝(だいちょう)』)が主催する「全国野球優勝大会」として開幕しました。
1879年に大阪で創刊された『大朝』は、まず東京に進出し、やがて全国紙へと成長してゆきます。最大のライバルは『大阪毎日新聞』(1889年創刊)、現在の『毎日新聞』でした。
新聞もまた、購読者の獲得をめぐり、競争にさらされる「商品」です。スポーツ・イベントを主催すれば、「特ダネ」(独占報道)で他社に差をつけ、全国に『大朝』の名望を高める宣伝効果も期待できます。そこで『大朝』が目をつけたのが、当時人気スポーツとなりつつあった野球でした。高校野球は、『大朝』のイベント戦略として創設されたのです。
甲子園人気と『大朝』の成長
『大朝』の目論見は当たりました。参加校71校で高校野球が始まった1915年、24万部だった『大朝』の発行部数は、参加校が264校に増えた1924年には69万部、634校に拡大した1931年大会では98万部に増大しています。1924年に阪神電鉄・甲子園球場が完成し、高校野球の定番会場になると、甲子園は野球の「聖地」化していきました。同年、ライバル『大毎(だいまい)』は春の選抜野球大会を始めています。
ラジオ放送の普及が甲子園野球ファンを拡大させた
甲子園野球人気の背景には、マス・メディアの発展がありました。
『大朝』は、号外を出して試合結果を速報し、週刊誌やグラフ雑誌を創刊して「甲子園野球」を盛んに特集していきます。最も大きな影響を与えたのは、当時誕生したばかりのラジオ放送でした。
1927年にまず大阪で高校野球の実況中継が始まり、1928年に全国中継網が完成すると、全国のファンが同じ放送を同時に観戦できるようになりました。ラジオは、球場に行かないファン、つまり野球を「する」でも「観る」でもなく「聴く」ファンを拡大させ、甲子園野球を国民的娯楽へと成長させていくのです。その一体感は、「ラジオのあるところ至るところに今日の甲子園球場が浮かび出た」(1927年8月14日『大朝』)と表現されています。ラジオ中継は観客を減らすという阪神電鉄の懸念とは裏腹に、放送が人気になればなるほど、人々はますます甲子園球場に押し寄せました。
「スポーツ×メディア」はテーマの宝庫
ラジオが作り出した野球観戦の「一体感」は、テレビ時代、そしてネット時代へと引き継がれています。私たちはなぜ、高校野球に感動するのか? ——甲子園野球が巨大なメディア・イベントになっていく歴史を考察することで、現代社会の構造が見えてきます。
私のゼミでは、「スポーツ×メディア」をテーマに卒業研究を行なっている学生も少なくありません。「日米野球のメディア史」「創造される“カープ女子”」など、学生自身の設定した問いにもとづいて論文執筆に励んでいます。
身近なスポーツも、「見方」を変えれば発見に満ちている。その興奮が、ゼミ活動の醍醐味です。
「スポーツ」を深く考察したい。トケコミは、そんなみなさんの「味方」です。
参考(おすすめ)文献
有山輝雄(1996)『甲子園野球と日本人:メディアのつくったイベント』吉川弘文館
(松永智子)
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