2015/06/13

【学問のミカタ】梅雨、つぶつぶそれぞれ

6月の共通テーマは、梅雨。

今回は「身体表現ワークショップ」担当、北海道生まれの中村理恵子がお届けします。

【北海道には、(たぶん)梅雨がない】

「東京には、空がない」とは、詩人高村光太郎の『智恵子抄』にでてくる有名な一文ですね。

 30数年前、長旅を経て上野に着いた当時10歳だった私にとって、大都会東京の第一印象は、ひたすら蒸し暑い。臭い。水まずい。昨日までの青くて澄みきった空と違うこのジメジメとした鬱陶しさは、いったい何なの?!

 北海道には、まっすぐ伸びる青竹もないけれど、梅雨も、たぶんない。梅雨未経験の私は、毎夜悪夢をみるようになりました。智恵子が故郷の安達太良山の空に思いを馳せる目線と、どんより重たい空の向こうに大雪山系の幻をみて溜息つく私には、どこか通じるものがあります。

 たぶん軽いノイローゼだったと思いますが、とうとう小児科のお医者様のお世話になりました。当時のお医者さんは、よく打診をしました。胸などを指先でトントントンと小気味よく叩いて、「はい、大丈夫」と背中をなでられたとたん、あららら、すっと気持ちが楽になりました。単純なものです。しかし「梅雨」を過ごすのは、大人になった今でもなかなか大変です。
(『智恵子妙』高村光太郎。全文が「青空文庫」で公開されている)

















▲ 画像 1[水滴]

【つぶつぶの中に個性が現れる】
















▲ 画像 2[ごはんの梅干]

 この鬱陶しい梅雨の季節、街路には青々した梅の実が瑞々しく育ちます。

 あるとき20粒ほど、みごとな梅をいただいたので、勇んで梅干作りに初挑戦です。梅雨明けの土用干しの頃には、つぶつぶの梅たちも塩にもまれてなかなかいい感じです。まるで味わい深い人の顔(かんばせ)のようでもあります。強い日差しの中で変容するひと粒ひと粒に個性がでてきます。梅干としてみごとに成熟しはじめたある日、彼らそれぞれに名前をつけました。いいえ、名前のほうが向こうからやってきたというのが正しいでしょうか。自分で描いた作品にぴったりのタイトルをつけるような気持ちです。今宵は、梅干かんばせ作品のひとつ「メディア」をいただいてみますかw

 何事も、まずは食事が大事です。なんでも東京芸術大学の学食では、梅干1粒10円だそうですよ。東経大の「100円朝食」にも梅干オプションあるでしょうか? じゅるっと、唾が出ますね。


















▲ 画像 3 [梅干全図]

【アーティストが形(型)にはまっちゃうなんて!?】

 私が担当する身体表現ワークショップでは、杖道(じょうどう)という形武道をとりいれて作品制作をしています。

 この古(いにしえ)の形武道に出会った当初、形(かた)って窮屈でおよそ創造的でないと思いましたが、それは誤解でした。杖道形は、クッキーや鋳造型に種を流し込んで寸分違わぬコピーを量産するのとは違います。師匠曰く「杖(じょう)には、その人なりの杖がある。形は生きている」、つまり形という情報を各人の生身でやってみてはじめて杖道である。背の高い人低い人、男女、若い人老いた人、それぞれの事情、ペース、身体を使って「強く、正しく、美しく」再現できてこそ杖道だと言っているのです。杖道形は、相手に応ずる無駄のない動きや流れを、今に生きる人が再現するためのアルゴリズムのようなものです。これを繰り返し稽古して身体に馴染ませていきます。

 私は、杖道をアートに応用していますが、国際政治の場で活かしている人もいます。米国下院科学技術委員会スタッフのダン・ピアソンは、インタビューの中で「日々、気苦労も多くて緊張の連続だけど、杖道は、人とのコミュニケーションに非常に有効だ」と言います。オバマの下で働いていた彼は、国際紛争を回避する形を探しているのかもしれません。


▲ 画像 4 [杖道の可能性 アート、戦争回避、平和-The possibilities of Shinto Muso-Ryu Jodo]うまく見られないときはここから。

 鬱陶しい気候や日常のちょっとした作業も、そして古めかしい武道でさえも、人それぞれに引き寄せてみると思いがけない可能性が開くものです。案外、幸せの青い鳥は、いつも足元の何気ない日常の中や、ダサ〜いと思われがちな日々のつぶつぶの中でさえずっているということでしょうか。

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