「情報社会論」担当の西垣通です。
3月の共通テーマは「卒業」。
卒業式は私の好きな行事である。なぜだろう? 世話のやける学生たちがようやく巣立ってくれるからだろうか。―いやいや、とんでもない。情報学的にはうまく分析できないけれど、こみ上げてくる熱いものがあるからだ。
卒業していく学生たちは、皆うれしそうである。訣別の日でもあるのに、センチメンタルに名残を惜しむ様子などあまりない。もうすぐ始まる新たな生活のことで、頭も胸もいっぱいなのだろう。入学以来の歳月の流れをふりかえり、ひそかに感慨にふけるのは、むしろ親や教師のほうなのだ。
わずか四年前、詰め襟やセーラー服が似合う童顔の高校生だった、あの子やこの子……。それが、キャンパスで夏から冬へと季節を重ねるごとに、みるみる都会の若者の洗練されたファッションを身につけ、大学のコミュニケーションの空気に馴染んで、のびやかな青春賛歌の雰囲気を漂わせるようになってくる。そして時がたち、今こうして学窓を去っていく彼や彼女のぴんと伸びた背中は、社会人風のはきはきしたマナーとともに、すでにある種の大人の苦みさえ醸し出しているのだ。
ゼミで元気よく、また遠慮がちに発言していた、あの顔やこの顔。それらを、私はもう、二度と眺めることは出来ないかもしれない。
息子がまだ幼かった頃、幼稚園の卒園式に出席したことがある。満面の笑みをたたえてはしゃぐ園児たちの脇で、女の先生、そしてお母さんたちが皆、ぽろぽろ涙を流していた様子を鮮明に覚えている。家族の愛情を浴びてわがまま一杯にすごしていたわが子が、初めて仲間との集団生活に投げ込まれ、芋掘り、遠足、運動会など、泣いたり笑ったりしながら、試行錯誤で歩んできた。その子がもうすぐ小学校に入り、本格的な学習教育の場に参入する。ようやく準備がととのったというわけだ。つみかさねてきた出来事のありさま一つ一つが、涙とともに湧き上がってくるのだろう。
どの子も仲間と一緒に成長する。こうして大学を卒業していく学生たちは今や、小学校以来の学習教育の場を後にしようとしている。これからは仲間と別れ、一人で、生き馬の目を抜く荒々しい競争社会に漕ぎだしていくのだ。もはや、陰で支えてくれる親も教師もいない。嵐の中でたくましく、しかし優しさを失うことなく、自分の航路を拓いていけるだろうか。そのための知恵やエネルギーを、たとえわずかでも、私はうまく学生たちに伝えることができただろうか。
最近、大学も経営体であり、教師は教育労働者として知識を学生に効率よく伝達するのが役目だという議論をよく耳にする。なるほど、それも一理あるだろう。だが、細かい断片的知識はどこかに忘れてしまっても、キャンパスで過ごした日々の身体的な記憶、濃密なコミュニケーションでつちかわれた豊饒な感覚は、たやすく消えるものではない。
学ぶとは、教えるとは、つまり、人間同士をむすぶ一回限りの出来事の堆積ではないだろうか。情報社会とは、そういう堆積がつくるものなのである。
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