2019/01/17

学問のミカタ 「学校スポーツのあり方について考える」


スポーツ・コーチング論担当の遠藤愛です。
今年度のゼミでは「甲子園という病」を課題図書として設定し、甲子園などを含む学校スポーツについて考えてきました。この書籍では、甲子園の連投を熱投、熱闘と讃え、美化する日本のメディアのあり方に疑問を呈し、アメリカではこうした過度な負担を児童虐待と捉える考えもあるといった指摘がありますが、甲子園を目指していた学生たちにとっては、これまで考えたこともなかった視点だったようです。

ゼミでのディスカッションでは、高校生活の全てを賭けてきた甲子園において、自分の体がだめになっても部の仲間のために投げ続けるという選択は当然だという意見もある一方で、こうした現状はおかしい、大会日程を調整すべき、投球数を制限するなどの意見も出ました。しかし、会場や日程を考えると、これらの策を実現するのはとても困難という意見も多数出ました。

実は、この本の内容に一番衝撃を受けたのは、クラブ育ちで個人スポーツしか知らない私だったかもしれません。常に自分のためにプレーすることを当然としてきた私の考え方からすると、自分ではなく仲間のために無理をしてでも投げるという “甲子園の常識”には驚かされました。私は、指導者が、選手に負担があることがわかっていながら、選手にプレー続行の可否を尋ねたり、プレーを続行させる判断を下すべきではないと考えているからです。

スポーツ選手は、試合中に過去、現在から未来を予測し、プレーします。スポーツを見る面白さは、選手たちが作り出す予測できない展開を見届けることにあるでしょう。そして、プレーする当事者としての面白さの一つは、未来を自分の手で作り出せることにあると思います。私も、一本、二本先の展開を予測し、そのために今打つショットを選択して組み立てていく面白さに夢中になりました。囲碁や将棋でも2手先、3手先を読んでさすと聞きますが、自分でゲームを創ることが勝負の醍醐味でもあり、勝負に負けるときは、相手の方が未来を組み立てる術、つまり技術・戦術において上回っていたともいえるでしょう。

では、指導者はどのような役割があるのか。
それは、他者、つまり選手の今、そして未来に向けて、選手の目標を達成するために導くことが仕事でしょう。選手の人生に関わるので、責任は重く、将来に悪影響を及ぼすリスクのあるプレーは避けさせるべきだという意見を学生たちに伝えました。

あるゼミ生は、「その考えはよく理解できる。でも、実際に自分が高校生活の全てを捧げてきた場所に立った時は、例えその後、2度とプレーできなくなるかもしれないと言われても、やっぱり自分はプレーしたい」と述べました。

今回の目的は、”これまでの自分の常識を疑い、客観的に考えること、自分と異なる意見を聞くこと、相手の意見を聞いた上で自分なりの考えをまとめていくことに取り組むこと”でした。他者とのやりとりを通して、自分がこれまで当たり前と考えてきたことに別の見方があることを知り、仲間の意見を聞いて、共に考えることができたのはよかったと思います。多様な観点から検討を加え、時間をかけながら自分にとっての正解を導き出すこと、これも大切な学びの一つだと考えています。

 

頭を捻って討論した後は、全員で運動会を行いました。しっぽ取り、綱引き、長縄、リレーとなかなかハードな種目が続きましたが、やっぱりスポーツは面白い!リハーサルの時は流していましたが、やっぱり勝負がかかるとみんな真剣になるんですよね。今年の1年間もマナゼミは良いゼミ生に恵まれました(遠藤愛)。


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