22世紀恋愛論
安斎利洋
4月にコミュニケーション学部客員教授を拝命しました安斎です。すっかり時機を逸した挨拶もかねて、今日は「まれびと効果」についてご報告したいと思います。
私が生まれ育った上板橋に、かつて教育大学(現筑波大学)の学生寮があり、われわれ悪童たちは部外者立ち入り禁止のその区画に侵入しては、ときおり出現する子供好きの寮生と仲良くなりました。彼らはときに野球の奥義を伝授してくれたり、いらなくなった参考書を、あたかも禁書のごとく授けてくれたりしたのでした。彼らはわれわれ悪童社会に異質なものたちをもたらしては去っていく客人(まれびと)でした。
客員教授のお誘いを受けた時、「まれびと」の語を思い浮かべました。「客」として、そこに居続けないからこそ見える異質性を学生にもたらすよう要請されているのだと理解しました。
たとえば大学にはそれぞれ学生の特色があり、ファッションも違えば見ているドラマの傾向も違います。大学は友人ネットワークですから、何がしたい何がほしいといった欲望を友人同士で同質化する培養器のように機能します。
前期に担当した表現と批評「可能人類学」では、人間の社会、言語、科学に至るすべての文化は、たまたまそうなっている「偶有性」の結果であると仮定しました。どんな社会も培養器であり、植えつけられる種によって別のありようもあったのではないか、潜在的な人類の様態があるのではないか。
可能人類学では、さまざまな思考実験を通して人間の別の様態を探っていきました。たとえば「触覚的自我」は、人類がもともと視覚をもたなかったら、どのような自画像を描くかという思考実験を、実際にアイマスクで視覚を閉ざし、つるつるの白い紙とざらざらの黒い紙を切って貼る作業で完成させます。他人がどう描いているか見えないので、十人十色ばらばらのスタイルをもった自画像群が仕上がっていきます。
滝口集(東経大コミュ2年)の作品 真ん中に空いた穴は心臓
この講座「可能人類学」をしめくくる思考実験は「22世紀恋愛論」でした。ケータイのない1990年代の恋愛は、スマホのある今の恋愛とは異なります。一方で、千三百年前の万葉の相聞歌に現代人は感情移入できます。はたして百年後の恋愛はどうのようなものか、案外今と同じなのか、とんでもなく別物なのか。グループを何度も再編成しては議論を重ね、最終的に未来の恋愛ドラマのシナリオを個々人が書く、という課題でした。
これが予想をはるかに裏切るすばらしい出来でした。誇張でなく本当に引きこまれる作品がいくつも生まれました。最終日には映画監督の木場明義氏が講評のうえ、次の3作品に賞が授与されました。
「maclay」森田英暉 SF賞
「VRなんて絵空事」伊藤匠 ストーリー賞
「ラブレター」三上拓成 ラブ賞
さてこのワークショップのデザインに、まれびと効果を仕組みました。ここ10年私は武蔵野美術大学基礎デザイン学科で「オートポイエーシス論」を担当していて、この授業に「22世紀恋愛論」を引き継いでみたのでした。東経でのワークショップを下敷きに、リレーする形で議論を重ね、作品を制作しました。その結果をまとめたのが以下のページです。
制作の専門性を目指すムサビの学生たちが、 VRChatなどを遊び尽くしている東経側の作品に影響を受けているのが印象的でした。なかでも面白かったのは、伊藤匠(コミュ2年男子)が書いたシナリオに感銘をうけたムサビ3年女子が、作品を書籍化する想定で表紙を描いたこと。その後シナリオ男子は、ムサビの授業に潜入して表紙女子に対面しました(その後このリアルドラマがどうなったのかは私の関知するところではありません)。
そういえば先月、ユネスコ無形文化遺産として来訪神が登録されたニュースが飛び交いましたが、大学にもときどきまれびとが往来するといいですね。これからも、あまり威圧的ではない「なまはげ」を仕込んでいこうとあれこれ画策中です。
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