2019/05/30

■120年前の日本人留学生―英国ケンブリッジ■



(筆者撮影:無断使用及び転載不可)


               
2020年に創立120周年を迎える私たちの東京経済大学が産声を上げた1900(明治33)、英国の首都ロンドンのベイカー通りにあったエリオット・アンド・フライという写真館で撮影された1枚の家族写真があります。この写真におさまっているのは、パリ万国博覧会の視察のために渡欧した本学の前身校の創設者 大倉喜八郎と妻 徳子、その嫡男 喜七郎 です。この後の190310月、喜七郎はケンブリッジの名門校である<トリニティ・カレッジ>に入学します。今回の【トケコムレポート】は、英国留学時代の大倉喜七郎の足跡をたどる「旅」がテーマですが、その出発点はこの写真との出会いでした。


            
ロンドンの大倉喜七郎:1900,明治33
(提供:東京経済大学史料室、無断使用及び転載不可)


          
建学の精神を受け継ぎ、コミュニケ―ション学部では、グローバルな人材の育成を大きな目標の一つとしてきました。いつの時代も、海外留学は若者を成長させる最高の機会かもしれませんが、ここでご紹介する英国ケンブリッジの名門校の扉を開けた日本人青年大倉喜七郎の留学生活は何もかもが日本人離れした桁はずれのスケールで、父親ゆずりのパイオニア精神を遺憾なく発揮した足跡が今でも残されています。

■ボート部の選手として活躍■
トリニティ・ボートクラブの台帳には、歴代のレガッタやボートレースに出場した全ての選手の名前が記載されており、その中に喜七郎の名前も残されています。これは、日本人留学生でありながら、喜七郎はこのコミュニティ最大のイベントの一つであるレガッタに<トリニティ・カレッジ>を代表して出場したことを意味します。カレッジは異なりますが、当時のケンブリッジには、後に著名な経済学者となるジョン・メイナード・ケインズ(キングス・カレッジ)や、その後三菱財閥を率いた岩崎小彌太(ペンブルック・カレッジ)も学んでおり、喜七郎選手の活躍は、この二人の目にもとまったに違いありません。

■世界初の自動車レース出場■
ロールス・ロイス社の創業者の一人でもあるチャールズ・ロールスCharles Stewart Rolls)は、同じ<トリニティ・カレッジ>の先輩でした。さらに喜七郎が仲良くしていたのは、20世紀初頭のモータリゼ―ションだけでなく、後の航空産業をも牽引したブラバゾン卿John Theodore Cuthbert Moore-Brabazon)で、彼らとの知遇を得て、喜七郎は海外の自動車レースで初めて入賞した日本人ドライバーになりました。

【ブラバゾン卿の1953年の回想から】
「少年の頃、オークラという日本人と Crammer(塾、予備校)、続いてケンブリッジで一緒だった。(中略)彼は楽しくて愉快な若者で、私は大変親しくしていた」

英国政界でも活躍し、後にチャーチル内閣では、交通大臣、航空機生産大臣などを歴任したブラバゾン卿のこの回想からも、喜七郎が共に学んだ英国の上流社会の仲間たちの輪に見事に溶け込んでいたことが分かります。
世界初の自動車レースは1907年に英国で開催されるのですが、この自動車レース専用に開設された ブルックランズ・スピードウエイ も、世界で最初に作られたレース・サーキットでした。喜七郎は自ら車のメカニックをマスターし、創業間もないトリノ(イタリア)の フィアット(FIAT)社の車を調達しました。190776日、史上初の自動車競争レースで彼が挑んだのは、最も賞金の高い「モンタギュー杯レース」で、日本からの留学生 大倉喜七郎選手 はみごと2位の栄冠に輝きます。
帰国後実業家となった喜七郎は、ホテル・オークラや川奈ホテル等の創業者として有名ですが、1930年代の国際観光リゾート開発を牽引したことに留まらず、文化人や芸術家へ惜しみない支援を行ったパトロンとしても高い評価を得ています。

シンポジウム『英国ケンブリッジ<トリニティ・カレッジ>の大倉喜七郎』■
20181124日、本学にて英国留学時代の大倉喜七郎に焦点をあてた学術シンポジウムが開催されました。登壇者は、英国からお迎えした元ケンブリッジ大学図書館日本部長・小山騰こやまのぼる)さん。海外で活躍する歴史研究者の視点から、ケンブリッジ時代の大倉喜七郎についてお話をしていただきました。


        
20181124日、進一層館にて開催)


また私にとっても、このシンポジウムは若き日のアメリカ留学の嬉しい副産物となりました。1979年に、ハワイ大学マノアキャンパスにあった<イースト・ウエスト・センター>コミュニケーション研究所の国際比較プロジェクトに日本から参加したのですが、ここで英国メディア分析のメンバーに加わっていたミセス・コヤマ(英国人)と出会いました。寮も研究所に隣接しており、寝食を共にすることになった小山夫妻とはすぐに意気投合。しかし4か月間のプロジェクトが終了すると、小山さんご夫妻はロンドンに、私は米国本土の大学院へ。その後ほぼ音信不通となっていましたが、人生は不思議なもので、37年後の私のサバティカル(国外研究)による渡英で再会。それがこのシンポジウムへとつながったのです。

■ケンブリッジ時代の大倉喜七郎を探して■
20168月、ケンブリッジ大学図書館の日本部門で活躍されるかたわら多数の著書を出版されてきた小山さんと、カレッジで美術史の講師をなさっていた元同僚の奥様にお会いできることになり、お二人の住むケンブリッジを訪れました。その折に、日本企業の海外進出に先鞭をつけたパイオニアである父親の大倉喜八郎と、その嫡男である大倉喜七郎の英国留学時代の足跡を物語る史料が英国にも残されていることをお聞きしました。日本ではこれまでほとんど注目されてこなかった大倉喜七郎に小山さんは早くから着目されており、留学時代の喜七郎のエピソードは、小山さんの著書 『破天荒<明治留学生>列伝』(講談社、1999年)にも登場しています。
サバティカルからの帰国後、前出のシンポジウムの企画が承認されたこともあり、コーディネーターとして繰り返しケンブリッジを訪れ、小山さんご夫妻のご協力で喜七郎が下宿していた建物を見つけることも出来ました。




急遽結成された大倉喜七郎調査チーム:20183(無断使用及び転載不可)



 
ロンドンのキングスクロス駅から出ている鉄道を使えば約1時間でケンブリッジの駅に到着します。オックスフォードと並ぶ古き良き学生街であるケンブリッジは、そこから徒歩10分ほどのところにあります。



(筆者撮影:無断使用及び転載不可)


<トリニティ・カレッジ>は街の中心を流れる川の上流にあるため、その正門までには、メインストリートの先に伸びている細い路地をさらに進むことになります。

    
<トリニティ・カレッジ>までもう少し(筆者撮影:無断使用及び転載不可)


古都の面影を残す建物に囲まれた通りをそのまま歩き、あと少しで正門にたどり着きそうなところにある建物の一つが、喜七郎が約120年前に住んでいた下宿の跡でした。小山さんのご協力により、<トリニティ・カレッジ>に残されている住所から特定することが出来ましたが、現在この通りはブランドショップが軒を並べる商店街になっています。私たちが訪れた時、喜七郎の下宿跡の地上階だけは工事のフェンスで覆われていました。この建物内のどこかの部屋を喜七郎は間借りしていたものと考えられます。

          
ついに下宿発見!(無断使用及び転載不可)


数多くのカレッジが雑居するケンブリッジですが、その学生たちの生活圏はほぼ半径1キロ以内にあり、その佇まいは今も当時のままです。その下宿からすぐのところにある、当時全てのカレッジの学生の試験会場としても使われていた多目的コンサート・ホールや、学生たちに今でも時をつげるチャペルを眺めながら、20世紀初頭のケンブリッジで学んだ日本人留学生として、言葉の壁を克服してどのように友情をはぐくみ、西欧文化と出会い、将来の夢を描いていたのだろう?などと、120年前にこの街を闊歩していた喜七郎青年の姿を想像しながら様ざまな想いを巡らせました。
昔も今も変わることのないケム川の緩やかな流れだけでなく、当時そこにいた青年たちの息遣いさえも伝わってくるかのように、この古い学生街には喜七郎の青春時代の足跡を語ってくれる建造物群がそのまま残されています。

小山さんご夫妻には、この場をお借りして心より感謝の意を表したいと思います。さらなる発見と感動を求めて、令和の時代も大倉喜七郎の足跡を探す「旅」は続きます!


長谷川倫子(はせがわ ともこ)【専門:メディア論、メディア史】
学部生向け コミュニケーション学部 2019年度前期担当科目『特別講義イギリス文化・観光とメディア』でも、このトピック倉喜七郎とケンブリッジ<トリニティ・カレッジ>」を取り上げる予定です。

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